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La historia del Valencia CF
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クラブの設立、沿革、アルヒロースグラウンド

1919年のことである。トゥリア川が流れる町、バレンシア市の中心街にあるバール「トリノ」でサッカークラブを作ろうという話が持ち上がった。オクタビオ・アウグスト・ミレゴ・ディアスとゴンサロ・メディナ・ペルナースの二人は、コインを空中に投げ合い裏表を見て、どちらが初代会長になるのかを決めることにした。結果はミレゴがバレンシアCFの会長、メディナが設立委員会と行事委員会を受け持つ事になった。

ミレゴとメディナはバルセロニーナ通りにあった小さな事務所で力を合わせてクラブ設立を目指した。初代バレンシアCF理事会メンバーには、パスクアルとフリオのガスコー兄弟、アンドレス・ボニリャ、ホセ・ロルカ、フェルナンド・マルサル、アドルフォ・モヤたちが名を連ねていた。

ところが、当時の新聞はスポーツニュースにほとんど関心が無かった為、クラブの設立に対して社会や報道関係の反響は全く無く、さらに、国内の政治社会状況が不安定な時代であった。バレンシア・フットボール・クラブ (Valencia Footbol Club)設立以前から、バレンシアではクラブというものは存在してはいなかったが、サッカーは行われていた。というのは、サッカー発祥地であるイギリスに行ったことがあるバレンシア産のかんきつ類の輸出に携わっていた人達がバレンシアの港でボールを蹴っていたからだ。たとえばフランシスコ・シニステラやラモン・レオナルテである。また、港ではイギリス人の船員たちがボールで遊ぶ姿も良く見られた。1908年には、レバンテ、ヒムナスティコ、イスパニア(イスパノ)といったクラブが誕生していた。

クラブが設立され、初試合は、1919年5月21日カステジョンで行われた。アウェイであった。試合結果は1対0で対戦チームのヒムナスティコ・バレンシアーノの勝利。バレンシアCFの選手として、マルコ、ペリス、フリオ・ガスコー、マルサル、ジョベット、フェレー、フェルナンデス、ウンベルト、マルティネス・イバラ、アリアガ、ゴメス・フアネダが出場した。

初のバレンシアCFのホームグラウンドは、1919年12月17日にオープンしたアルヒロースグラウンドで、今は無い。メスタージャグラウンドがオープンした1923年までこのグラウンドで試合が行われていた。バレンシアのホームグラウンドでの初試合、招待チームはカスタリア・デ・カステジョンで、結果は引分けに終る。翌日、再試合が行われ、バレンシアが1対0で勝利を得た。

アルヒロースにサッカーを観戦しにやってくる数も徐々に増えて来た。当時の入場券は25センティモ、この収入源によって支出を賄えるようになって来ていた。

1920年代に入り、バレンシア州チャンピオンズマッチにおいてチャンピオンの地位獲得に向かう熱望がクラブ内にみなぎり始めた。1923年、州チャンピオンズマッチを制覇し、クラブ史上初、スペインカップ(Copa de España)出場権を獲得した。次々と好成績を残す事により、バレンシア州のサッカー界においてリーダーとなる資質があることを証明していた。設立の3、4年後には、他チームからバレンシアCFが最も手ごわい敵だと見なされるようになり、ファンの数がどんどん増えていった。

クラブの重要性は、モンテスやクベルスなどの優秀選手が活躍したことでも明らかであり、地方だけのサッカーでは物足りなくなっていた。この二人に対し、闘牛士ファンさながら、クベルス派とモンテス派が出来上がり、応援合戦が始まる。選手二人はバレンシアCFのカラーを守るという共通の目的を持っていたので、このライバル意識は、チームにとっては良い結果となった。

アルトゥロ・モンテシーノス、愛称モンテス(山)は、身長190センチの恵まれた肉体によってクベルスよりも攻撃力を持っていた。エドアルド・クベルスは、モンテスよりもテクニックに優れ、バレンシアCF初スペイン代表選手で、バレンシア州からとしてはF.C.バルセロナで活躍したカバネス出身のアグスティン・サンチョに続いて二人目のスペイン代表選手となる

スペインカップ(Copa de España)に初出場を遂げたバレンシアCFに話を戻すと、トゥリア川の都では大きな期待感に盛り上がっていた。初戦の対戦相手はエスポーティング・デ・ヒホン。アルヒロース・ホームグラウンドでの対戦は1対0で歴史的な勝利に終った。勝利をもたらしたのはモンテスによる1点であった。そして1ヵ月後、ヒホンでのリターンマッチの結果は6対1の大敗北に終る。得点数による競技であったので、オビエドで第3試合が行われ、結果は2対0でエスポーティングの再勝利となった。

敗北にも拘らず、チームは国内で重要な地位を示すようになり、サポーターの数も益々増えて行った。クラブに対する関心が高まって来たところ、クラブの幹部たちは新ホームグラウンドの建設用地を探し始め、メスタージャ灌漑用水路に隣接する土地を見つけたのである。

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新しい舞台、メスタージャ

1923年、当時の会長ラモン・レオナルテが、メスタージャの土地購入証書に署名し、当時としては大金の購入資金31万6千439ペセタのローンが組まれた。1万7千人収容のグラウンドの建設プロジェクトを依頼されたのは二人のクラブ関係者、のちに会長となる建築家のフランシスコ・アルメナールとクラブ共同出資者であった建設業者ラモン・フェレーである。

新スタジアムのこけら落としは1923年5月20日に行われ、招待チームはレバンテ・U.D.であった。結果はバレンシアCFが1対0で勝利をあげ、メスタージャ・スタジアムでの初ゴールに輝いたのはモンテスであった。その2週間後には2日連続でスコットランドのチーム、ダンディーユナイテッドと対戦し、それぞれ、0対3、0対1で勝利を挙げた。

1923年までコーチの存在はなかったが、1923年から24年のシーズンにかけて、クラブはチェコスロバキア人のアントン・フィヴバーをコーチに採用し、メスタージャのクラブを国内優秀チームに育てるよう、依頼した。サッカーのプロフェッショナルが求め始られたこの時代に優秀な選手を育てたことは、彼の功績によるものである。

当時、スペインでは、国内の優秀チームを集めてスペインリーグ(Liga Nacional)を組織しようと動いていた。バレンシアCFとしてはリーグ戦参加を希望していたが、歴史が浅く、実績が足りなかった為に、1部リーグに名を連ねるまでに3年間待つ事を余儀なくされた。1920年代の後期、ルイス・コリナが会員になり、彼は1928年から1956年まで事務局長を務め、チーム成功への礎を築く業績を上げた。コリナはサッカーアカデミーを創設した他、選手契約にけい眼を持った人物であった。

スペインリーグは、1部と2部に分かれた。1部はスペインカップのチャンピオンである、アスレチック・デ・ビルバオ、レアル・マドリッド、バルセロナ、レアル・ソシエダー、レアル・ウニオン・デ・イルン、アレナス・デ・ゲチョの6チームで、試合の準優勝チームであるアトレティコ・デ・マドリッド、エスパニョ-ル、エウロパの3チームも加えられた。リーグ戦には10チームが必要とされ、そのためにバレンシアはベティス、セビリア、ラシング・デ・サンタンデ-ルとトーナメントを行った。ラシング・デ・サンタンデ-ルが勝利し、1部に参加する権利を獲得したのに対し、バレンシアは2部に残る事となった。

初めてバレンシアCFがチャンピオンズリーグ(Campeonato de Liga)に参加したのは、1928-29年のシーズンで、1部と同じく2部も10チーム参加し、順位は1位から順にセビリア、イベリア・デ・サラゴサ、デポルティボ・アラベース、エスポルティング・デ・ヒホン、バレンシア、レアル・ベティス、レアル・オビエド、デポルティボ・デ・ラ・コルーニャ、セルタ・デ・ビーゴ、ラシング・デ・マドリッドであった。

1929年2月17日、バレンシアはリーグ戦に歴史的なデビューを果たすことになる。場所はメスタージャスタジアム、対戦相手はオビエド、4対2でバレンシアが勝利した。この日のプレーヤーは、ペドゥレー、トレガライ、モリネー、サルバドール、モリ-ナ、アモロース、ペレス、イモッシ、ナバロ、シルビーノ、サンチェス。イモッシとナバロが1点ずつゴールをあげ、シルビーノが2点決めた。

2部での3シーズン目、バレンシアは1930-31年のシーズン中に念願の1部への昇格を果たした。フィヴバーに率いられたチームは圧倒的に強かった。昇格当時のチームメンバーは、カノ、ビジャローヤ、コンデ1世、メレンチョン、トレガライ、パサリン、トーレス、アモロース、アリージャ、コンデ2世、イモッシ、モリ-ナ、サルバドール、コスタ、ナバロ、オクタビオ、ぺロナ、ピコリン、リカルト、リノ、サンチェス、トレデフロット、ビラノバである。クラブの歴史は、この昇格によって第一次最盛期を終え、次の栄光とタイトル獲得の最盛期の時代に入る。1部での5シーズンを生き残り、その間市民戦争による中断もあったが、クラブ史上最高の10年となった。

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成長したバレンシアCF

市民戦争が終結し、バレンシアCFは新しい現実に直面することになった。1936年市民戦争が勃発した当時クラブに所属していた選手の多くが、3年後にはメンバーではなくなった。他の社会領域と同じく、サッカー界にも軍人の介入を見た。バレンシアCF会長にはアルフレッド・ヒメネス・ブエサ指揮官が着任し、ルイス・カサノバが副会長となった。新政府の目的の一つは、共和国的思想だと考えられたプロ意識を排除することであった。市民戦争によってバレンシアCFがさらに打撃を受けたのは、メスタージャスタジアムが度重なる爆撃によって破壊されたことである。その後増改築され、2万2千人を収容できるサッカー場になった。

ヒメネス指揮官の配置換えにともない、ルイス・カサノバが会長になった。カサノバ会長就任中は、クラブが絶頂期を誇った時期である。10シーズン中にバレンシアはスペインリーグで3回優勝、当時総統杯と呼ばれていた国王杯で2回の優勝に輝いた。エピ、アマデオ、ムンド、アセンシ、ゴロスティサによって構成された「電撃フォワード」と呼ばれた戦争前の優秀選手をベースにしたこと、カサノバ会長の素晴らしい人格、経験豊富なクベルス、モンチョ・エンシーナス、パサリン、ハシント・キンコセスをベンチに置いたこと、メスタージャスタジアムの復活、クルブ・デポルティボ・メスタージャという系列クラブを創設したことなどに因るところが大きかった。

当時、バレンシアCFは今までにないほどの最高の選手たちを抱えていたことは間違いない。イグナシオ・エイサギレ(アルバロとフアンラモン)と、バレンシア出身の2人とバスク出身の3人による「電撃フォワード」たちである。このプレーヤーたちによって初の国内タイトルがクラブにもたらされたのは、1941年、対戦クラブはエスパニョ-ルであった。クラブの設立後20年たってからの大勝利に、トゥリア川の都は町中が歓喜に沸いた。

国王杯の優勝カップ、スペインリーグの第3位、チームメンバーの中にスペイン代表選手が数人いたこと、クラブが未来への確たるビジョンを持っていた事によって、バレンシアCFはスペインサッカー界の「優秀」チームのひとつと数えることとなった。

41-42年のシーズンにメスタージャのクラブが初めてリー優勝の快挙を成し遂げた。矛盾するが、当時はスペインリーグより総統杯の影響が大きかった。しかし定期トーナメントでのバレンシアCFの大活躍を忘れてはならない。記録的なゴール数(26試合85得点)や、対アトレティコ・アビアシオン以外全勝、圧勝クラブとなった。その上、センターフォワードのエドムンド・スアレス、愛称ムンド(世界)が27点でリーグ得点王に輝いた。

1年後、43-44年のシーズンにスペインリーグで再び優勝杯を手にした。今回はトーナメント初回から首位を保っていた。バレンシアCFが負けたのはバルサ戦のみ(3-4)で、スペインリーグ2試合目にムンドは再び27ゴールを決めてリーグ得点王(pichichi)に輝いた。バレンシアCFはあまりに優勢を誇っていたため、リーグの面白みを多少欠く事となったが、4シーズンで3個のタイトルを獲得した事でファンの喜びは格別であった。しかし、バレンシアのサポーターにとって苦い時期もあった。それは、1944、45、46年と3年間連続で総統杯の決勝戦で敗退した事である。これは1970、71、72年の3年にも再現された。奇妙な事には、最初の3年連続決勝戦で敗北した時のスタジアムがモンジュイックオリンピック競技場だったことである。当時のバレンシアのサポーターたちによれば、バルセロナのスタジアムは不運を招くと言われていた。44年決勝戦は2-0でアトレティコ・デ・ビルバオに、45年も同じビルバオに3-2で、46年はレアル・マドリッドに3-1で敗北を喫したのである。

スペインリーグで3回目に優勝したのは、サッカーくじ(キニエラ)が始まった1946-47年のシーズンである。このリーグでバレンシアCFは最後まで苦戦の連続であった。まず初回から成績は悪く、8節目の順位はビリから2番目。最終日、どのチームが優勝するかもわからない状態で、アトレティコ・デ・ビルバオがチャンピオンになるであろうと予想されていた。アトレティコ・デ・マドリッドと(1947年1月からアトレティコ・デ・アビアシオンから改称)バレンシアCFにも優勝の可能性はあった。最終試合、パサリンコーチが率いるバレンシアCFが6-1でヒホンに圧勝。他のライバルチームはつまずき、ビルバオはラ・コルニャと3-3で引分け、アトレティコ・デ・マドリッドはホームグラウンドで永遠のライバル、レアル・マドリッドに2-3で敗北したのである。バレンシアCFは、最終的にサン・マメ-スとメスタージャスタジアムで挙げた対バスクチーム(ビルバオ)とのゴール数の違いで制覇する結果となった。当時、まだ電子スコアボードもラジオの実況放送も無かった時代である。3度目のビッグニュースは電話で伝えられた。

1940年代も終りに近づくと、選手の世代交代が見られ、プチャデスやビセンテ・セギーの活躍が始まった。

バルセロナでの3シーズン連続決勝戦敗退の後、1949年の総統杯決勝戦がマドリッドで開催され、バレンシアはアトレティコ・デ・ビルバオと接戦の末、エピのゴールにより1点差で勝利を収めた。この時にバレンシアCFでそれまで活躍してきた選手と新しい世代の選手が交代した。

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プチャデスの時代

過去10年間ほどの好成績を得ることは出来なかったが、1950年代前半はメスタージャのクラブが再び輝いた。優秀な選手が居たにもかかわらず、ある事が成績を下げていた。それはこの時代、レアル・マドリッドにディ・ステファノ、バルセロナにクバラなど海外から強力な選手がスペインのクラブに入団して来た事である。

1950年代の最も傑出したバレンシアCFの選手は、まぎれもなくアントニオ・プチャデスであった。スエカ生れのこのプレーヤーは間もなくチームのシンボル的な存在となり、引退するまでクラブの主力選手を務めた。

この時代、スタジアムの増改築が行われ、グラン・メスタージャサッカー場が誕生した。クラブが目指したのは、強力なチームやバレンシア市と大勢のサポーターたちにふさわしい試合が出来るサッカースタジアムを造ることであった。その目的は達成されたが、このために大きな経済的打撃により、選手のラインアップには良い結果とならず、新しい選手の獲得が出来ない状況となった。

収容人数4万5千人の新メスタージャスタジアムの増改築には当時の金額としては大額の約1億ペセタが投入された。おかげでバレンシアCFのホームグラウンドは国内でも最高のサッカー場の一つとなり、スペインで開催された82年ワールドカップのスペイン代表本部や92年バルセロナオリンピックの会場ともなった。

ハシント・キンコセスは1950年代の傑出したバレンシアCF選手のひとりである。彼と共にバレンシアの選手軍が一新され、40年代の若手選手たちであったモンソー、パシエギート、プチャデス、セギーや他クラブからの契約選手達(ウイルキス、サンタカタリ-ナ、ブケ-、センドゥラ、マニョー、マングリニャン、キンコセス2世、プラ-、ソクラテス、ガゴ、バデネス、キケ、フエルテス、タルタブルなど)と共に活躍した。キンコセスは1948年から1954年まで監督として敏腕を振るった。

50-51年のシーズンは初めて16チームが参加したシーズンになった。バレンシアCFの成績は極めて不安定なものであった。メスタージャでは最上位のビッグチームたちが敗退して行った。バレンシアCFはデポルティボやセルタに負け、サンタンデ-ルやレアル・ソシエダーと引分けに終った。3位になったバレンシアは総統杯でもレアル・マドリッドに敗北してしまった。ルイス・カサノバ会長は辞表を提出したが、説得されて1959年まで会長職を続けることになった。

バレンシアCFは総統杯の決勝戦を、2度バルセロナと対戦した。1回目は1952年で、キンコセス監督の時代としては最低のシーズンであったが、リーグでは5位と、最悪のシーズンではなかった。総統杯は、セビリアとサラゴサに勝ち抜き、準決勝戦もレアル・マドリッドに勝利したが、最後の難題はF.C.バルセロナとの対戦で、1952年5月25日チャマルティンでの試合であった。バデネスが2度にわたりバレンシアにゴールをもたらし、順調にゲームは進んでいたが、ハーフタイム前にブルー緋色(ブラウグラナ)チームから大打撃を受ける事になったのである。そして後半、キンコセス率いるチームにとってはみじめな試合になり、結局バルサが4-2で総統杯を手にすることとなった。

51-52年のシーズン、メスタージャ系列クラブが2部リーグに出場する。カルロス・イトゥラスペコーチはフアン・ラモンにバレンシアCFの系列クラブへ入団するよう要請した。エランディオのようなベテラン選手が入団したことで、メスタージャクラブは2位になり、昇級小リーグ戦ではヒホン、サンタンデ-ル、アルコヤノ、ログロニェス、フェロルに対して勝利するが、クラブはメスタージャ系列クラブの昇級を断念してしまった。この決定に対して、メスタージャ系列クラブは1部選手の養成の役目を担ったクラブであることを1944年の設立時に表明していたにも拘らず、メスタージャのチームが昇級するべきだと考えるサポーターたちによる論争がバレンシア市内で沸き起こった。

52-53年シーズンはバレンシアCFにとって好調であった。試合経過も良く、センドラ、マニョ-、マングリニャン、ソクラテスなどメスタージャクラブから選手が入団し、チームメンバーも一新した。しかし、バレンシアCFはスペインリーグ最終月に崩壊し、バルセロナがチャンピオンの座に着いた。バルサは総統杯でもバレンシアCFに勝利した。

翌年のスペインリーグでキンコセス監督率いるチームはマドリッドとバルサの後に続いて3位に終った。その年の総統杯の結果は最高のものとなった。再びの対戦相手となったバルセロナはあっけなく、3-0でバレンシアCFに完敗し、1952年決勝戦での雪辱を果たすことが出来たのだ。1954年6月20日、キンコセスはキケ、モンソー、プチャデス、バデネス、パシエギート、セギー、ソクラテス、フアン・カルロス・キンコセス(監督の甥)、マニョ-、フエルテス、ブケをラインアップした。フエルテスが2度とバデネスが1度ゴールネットを揺らした。この時のチャマルティンの制覇は歴史に残っている。ゴールのクロスバーの下で座っているゴールキーパー、キケの姿はバレンシアCFが試合を有利に展開していることを如実に表した非常に印象的な映像として残った。

この時の総統杯のタイトルを最後にルイス・カサノバ会長時代の栄光の時代が終焉を迎えた。この総統杯の後、転換期に入り、サポーターを喜ばすまでには至らなかった。1950年代が終るまで優秀な選手は居たが、メスタージャのクラブはスペインリーグで優勝する事もなく、総統杯の決勝戦進出も果たせなかったのである。

プチャデスを始めとして優秀な選手たちが1950年代後半、バレンシアで活躍していた。そのうちの一人は、イタリア出身オランダ人のセルヴァス・ウイルキスで、彼はまるで、足による球使いの曲芸師そのもので、3シーズンの間ファンを魅了した。

ナバラ出身のフアン・カルロス・キンコセスは、11シーズンにも亘り、白いユニフォームに身を包み、ディフェンスのポジションを見事に果たした。54-55年のシーズンから58-59年のシーズンの公式戦を連続出場するという記録を樹立した。(スペインリーグを連続120試合と更に総統杯)

1956年1月マノロ・メストゥレがバレンシアCFからデビューした。オリーバ出身のこの選手は1990年代にリカルド・アリアスがこれを上回るまで、バレンシアCFが持つスペインリーグでの最多出場選手であった。

1957年バレンシアは大洪水の被害に見舞われ、スエシア大通りにあったクラブも被害を受けた。この災害後は地味な数年間を過し、試合の成績も月並みなものであった。およそ20年間会長職にあったルイス・カサノバがついに引退することになった。彼は親しい協力者であったルイス・コリナの死が彼に引退を決心させるに至った理由であったことを否定しなかった。新会長にはビセンテ・イボラが就任した。イボラの時代及び彼の後継者フリオ・デ・ミゲルの時代(1960年代)にはとりわけ、バレンシアCFはヨーロッパでの活躍著しい時代に入る。

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/system/modules/es.valenciacf.club/elements/EL VALENCIA SE CONSAGRA EN EUROPA

ヨーロッパで認められたバレンシアCF

1961年7月2日、ブラジル人選手ワルテルがエル・サレール街道の交通事故で死亡したニュースにバレンシア市全体がショックを受けていた頃、フリオ・デ・ミゲル・マルティネス・ブハンダが会長に就任した。そして、バレンシアCF史上再び好調な10年間が始まったのである。丁度その頃、スペインサッカー界では、とある新しい必要性に迫られていた。それは大陸へ進出してヨーロッパサッカー界にその実力を見せるということであった。

新会長による最初の功績のひとつは、各イベント会場での対抗カップ(フェリアスカップ)にバレンシアを出場させたことであった。当時このカップはリーグ戦での成績によるものではなく、招待試合であった。更にデ・ミゲル会長は、ブラジル人のワルド・マチャード名選手との契約にこぎつけた。ワルドはメスタージャスタジアムで素晴らしい午後を演出した上に、クラブ史上最多得点を獲得した選手の一人となった。彼の確実なゴール、目を疑うようなフリーキック、軽快なサッカーはスペイン国内だけではなくヨーロッパに10年に渡る足跡を残した。ワルドとビセンテ・ギジョットは、理想的なツートップで、お互いに完全に理解し合い、ギジョットもブラジルの選手と同じキャリアを残した。

ヨーロッパで成績が良かったのに反して、スペインリーグでの成績は芳しくなかった。61-62年のシーズンのこと、ホームでの勝利は確実であったが、アウエーグラウンドではパッとせず、レアル・マドリッドに12点差をつけられ、7位に終った。

フェリアカップでは英国の大サッカーチームの一つ、ノッティンガム・フォレストが最初の対戦相手であった。第1試合は英国のシティ・グラウンドで行われ、1-5の結果でバレンシアの見事な大勝利。イギリスチームに勝った後、次の相手はローザンヌ。その後バレンシアCFは準決勝に進んだ。その相手はメスタージャでは2-0で勝っていた手ごわいインテル・デ・ミラン。イタリアでの試合結果は3-3の引分けに終った。

準決勝戦はMTKブダペストにバレンシアCFが史上に圧勝する。ホームグラウンドでの試合は3-0の勝利、ブダペストでの試合は3-7で勝ち進んだ。バレンシアCFチームがヨーロッパのチームにゴールの雨を降らせた試合である。

決勝戦は旧知のチーム、F.C.バルセロナとの対戦であった。6対2、歴史的勝利であった。ヨーロッパを相手に戦った末のチャンピオン獲得を果たしたのだ。メスタージャにサポーターたちが押し寄せたその日は、1962年9月12日であった。既にトーナメントの結果は出ていたが、相手チームホームでの試合1対1の引き分け。決勝戦のメンバーは、サモラ、ピケ-ル、キンコセス、メストゥレ、サストゥレ、チカオ、エクトル・ヌニェス、ギジョット、ワルド、リベイェス、ジョスであった。

フェリアスカップでのタイトルは、翌年も勝利し、2年連続制覇することとなった。最初に苦戦を強いられたのはスコットランドの3チーム、グラスゴーのセルティック、ダンファームライン、エディンバラのハイバーニアンズであった。準決勝はローマと対戦。メスタージャでは3-0で勝ち、ローマのオリンピコでは1-0で勝ち越して再び決勝へのパスポートを手にする事が出来た。

決勝戦はザグレブのディナモが対戦相手。第1戦は当時のユーゴスラビアの町で行われ、1点取られた後、バレンシアはワルドとホセアントニオ・ウトゥリアガが2点を入れて乗り切った。リターンマッチは1963年6月26日、メスタージャにて、5万人の観衆が見守る中でバルカンのチームに2-0で勝利した。マニョ-とエクトル・ヌニェスのゴールによるものだった。

翌シーズン、バレンシアCFは再びフェリアスカップへの決勝進出を果たした。アイルランドのシャムロック・ロヴァ-ス、ウイーンのラピッド、ハンガリーのウジュペスト・ドスザを勝ち抜き、準決勝もドイツのケルンを勝ち抜いていた。ドイツチームとの苦戦を乗り切ったあとに待っていたのはスペインチーム、“5大選手”を擁していたサラゴサであった。しかし1年前の決勝戦と違って、勝利の女神はアラゴンのチームに微笑んだ。サラゴサのビージャとマルセリーノが2点決めたのに反して、バレンシアのチームはウトゥリアガ1点だけに終ってしまった。

サラゴサに痛い打撃を受けたバレンシアCFチームであった。この敗北により、1967年に総統杯で優勝するまで、鬱々とした状態が3年間続くこととなった。

バレンシアCFでは選手交代が続いた。フアン・クルス・ソル、ペペ・クララムントが新メンバーとなった。この2選手の入団はバレンシアがスペインサッカー界において、再び上位に食い込む手がかりとなった。

彼ら二人とワルドやアストゥリアス出身のゴールキーパー、アベラルドたちの活躍により、バレンシアCFは1967年総統杯の決勝戦まで進出する。第一次、二次予選はカディスとベティスに余裕を持って勝ったものの、道のりは遠く困難であった。準々決勝に入り、レアル・マドリッドを敗退させ、準決勝ではバレンシア地方のチームで歴史あるエルチェとの対戦し、勝ち進んだ。そして総統杯の決勝戦では古くからのライバル、アスレチック・デ・ビルバオと向き合うことになった。
 
ロベルト・ヒルがバレンシアCF史上4度目の総統杯を空に掲げることになった。マドリッドでの試合では、バスクチームに対し、パラグアイ出身のアナスタシオ・ハラとパキートがゴールを入れ、2-1で勝利した。この総統杯での制覇は大勢のバレンシアCFファンたちへの素晴らしいプレゼントになった。

翌シーズン、バレンシアCFはヨーロッパ・リカップへの初出場を遂げる。バレンシアCFは、北アイルランドのクルセーダースとブカレスト・スティオーアを予選で勝ち抜いたものの、当時、伝説的選手セップ・マイアーやフランツ・ベケンバウアーを擁していたミュンヘンのバイエルンに敗けを喫した。

1967年の総統杯の後、1970年代に入り再びタイトルを奪うまで、バレンシアは控え目な3年間を過した。

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/system/modules/es.valenciacf.club/elements/LA ERA DE ALFREDO DI STÉFANO

アルフレッド・ディ・ステファノの時代

アルフレッド・ディ・ステファノが1970年4月、バレンシアCFに入団した。メスタージャのクラブの成績が振るわない時期で、エンリケ・ブケ-やサルバドール・アルティガスのペアに代る選手としてであった。そのシーズン、バルセロナでの総統杯の決勝戦でレアル・マドリッドに3-1で敗れていた。バレンシアファンにとってモンジュイックはまたしても不運をもたらしたわけである。レアル・マドリッドは、リーグ戦でのクラブ史上最悪の順位で出場、前半グロッソとアマンシオが負傷し退場、全てはバレンシアに優位であったにもかかわらず、結果はマドリッドの勝利に終った。

ディ・ステファノがFWとしての最初のシーズンはバレンシアにとって、史上最も緊迫した、エキサイティングな思い出深いシーズンのひとつとなり、今日までその興奮を越えたシーズンはない。ディ・ステファノによって新体制が確立した。ディフェンスにソル、アニ-バル、へスス・マルティネス、アントンを置いて確実な守りを、GKにはアベラルドを置いてゴールを固めた。頭を使った、緻密な中盤、正確なサッカーにしたのである。MFの司令塔はペペ・クララムント、そして敏捷で理想的なカウンターアタックを可能にするため、フォルメント、バルデス、セルヒオ、ペジセールをフォワードに配置してポジションを固めた。

70-71年のシーズンは、16チームが戦った最後のシーズンで、バレンシアCFは、最初の数試合の時点において既にカテゴリー降格の可能性があるチームになってしまう。その後、少しずつ成績が良くなり、成績順位は中ごろまで上昇していた。ノウ・カンプで行われた試合は、ビッグマッチとなった。クララムントとバルデスの2点により、0-2の勝利、アベラルドが相手のゴールを確実に止めた。バレンシアがタイトルを獲得するに値するチームであることを証明する試合となった。

そのシーズンで一番思い出されるのは、サリアースタジアムでのスペインリーグ最終戦である。最上位のバレンシアCFは43点で、バルセロナが42点、アトレティコ・デ・マドリッドが41点で迫っていた。ディ・ステファノのチームは、エスパニョ-ルに1-0で負けたことから、もう1点必要としていた。ところがアトレティコ・デ・マドリッドとバルセロナが引き分けた結果、バレンシアCFがタイトルを握ることになった。バレンシアCFが4回目のスペインリーグを制覇した理由は、堅い守りに加えてアベラルドが19点だけしかゴールを許さなかったことだと、多くのアナリストたちの意見が一致した。

スペインリーグが終り、バレンシアCFは1944年のように、総統杯も両制覇することを確信していた。マジョルカ、ベティス、マラガを破り、準決勝ではセビリアも破り、決勝に進出。8試合で18得点を入れ、敗北を知らず、スペインリーグのチャンピオンはくチームは地に足がつかないといった状態であった。舞台はサンティアゴ・ベルナベウ、相手は宿敵バルセロナ。決戦となり、バルセロナが4-3でバレンシアCFに勝った。バレンシアCFの最良シーズンにご褒美をもたらすことは出来なかった。

スペインリーグのタイトル獲得によってヨーロッパ大陸の最高峰、ヨーロッパカップへの出場権を獲得した。バレンシアCFはルクセンブルグ、ハジュック・スプリットを破ったものの、第3試合でユジュペスト・ドスザに敗退し、あっけなく終ってしまう。

おそらくその当時のバレンシアCFは、スペインリーグを制覇した最高のチームだったであろうにも拘らず、71-72年のシーズンは準優勝にとどまった。チャンピオンチームとして、他の全チームからライバル視されていた。キノ、アドルノ、リコが新メンバーとなり戦力を強めたが、前シーズンのような成功をもたらすには充分ではなく、レアル・マドリッドがチャンピオンとなった。

またしても、バレンシアCFは総統杯決勝戦で負けを喫することとなった。アトレティコ・デ・マドリッドに2-1。サルセドが1点先取。バルデスが同点に追いついたものの、勝利のゴールはマドリッドのホセ・エウロヒオ・ガラテが決めた。試合を観戦していた2万人を超すバレンシアサポーターにとってこの敗北は大きな傷跡となった。

1973年、フリオ・デ・ミゲル会長が引退する。彼の右腕であったビセンテ・ペリスマネージャーの死から1年後のことである。会長引退後のバレンシアCFはスペインリーグの成績も平凡に終る。フェリアスカップが改められてUEFAカップとなり、バレンシアCFはマンチェスター・シティとの初戦を飾ったものの、2戦目はベルグラードのレッド・スターに敗退した。

フリオ・デ・ミゲルの後任者として会長として就任したフランシスコ・ロス・カサーレスは、当時の役員会では多く反対意見があったものの、後のバレンシアチームの練習場となるパテルナの土地を購入した。彼の最も偉大な業績である。

スペインサッカー界は国境を取り去ることによって、各チームに外国人選手を2人までラインアップ出来るようになり、これで外国人選手の問題が解決された。メスタージャのクラブに入団した最初の外国人選手の内の一人は、フランスで活躍していたマリ出身のフォワード、サリフ・ケイタで、もう一人は、オーストリアのクルト・ハラであった。そのシーズンは振るわず、1961年以来初めてヨーロッパでの試合に参加することも無いシーズンとなった。

非常に困難な時期ではあったが、当時のヨーロッパサッカー最高チームのひとつ、アムステルダム・アヤックスにいたオランダ人の右ウイングのジョニ-・レップなどバレンシアCFのプレーヤーには優秀選手が顔を並べていた。

1976年1月、ロス・カサーレスの後任者、ホセ・ラモス・コスタが会長に就任する。コスタ会長の下、1979年に国王杯、1980年にヨーロッパ・リカップの優勝杯を手にした。しかし、1982年のワールドカップのためにメスタージャサッカー場が改築工事に入り、借金を抱え始め、経済的には困難な時代であった。

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ヨーロッパで認められたバレンシアCF

76-77年のシーズンはそれまでと全く異なったシーズンとなった。バレンシアに監督としてパラグアイ人のエリベルト・エレラが就任し、選手はカステジャーノス、ディアルテ、カレッテ、ボトゥボット、アリアスなどが入団し、中でもマリオ・アルベルト・ケンペスが際立っていた。

ケンペスは、1978年のワールドカップでアルゼンチンを優勝に導いた立役者のみではなく、バレンシアCFに最も偉大な足跡を残した選手となった。ケンペスはスペインのナショナル・リーグで2度最多得点王となり(76-77年24得点、77-78年28得点)、1978年には、アルゼンチンで開催されたワールドカップでも最多得点を獲得、1979年の国王杯と1980年のヨーロッパ・リカップでも優勝へと導いた名選手である。彼の持つカリスマ性、正確なキック、ゴールの巧みさなどによってアルゼンチンの某記者が「闘牛士」とあだ名をつけたほどであった。「ケンペスと呼ばずゴールと呼ぼう」という恒例の雄叫びが毎日曜日メスタージャサッカー場にこだましていた。

ラモス・コスタ新会長の最初のシーズンは、監督(エリベルト・エレラ)が解任され、スーパープレーヤーのケンペス、エンリケ・サウラ、リカルド・アリアスのような伸び盛りの選手、カステジャーノス、カレッテ、ボトゥボトのように新規契約の選手たちのがんばりなどで始まりを告げた。

カタロハ出身のリカルド・アリアスは当時バレンシアCFに入り、クラブ史上最多出場選手になり、17シーズンもの間、白シャツに身を纏い、バレンシアCFが最も輝いた瞬間も最も悲しい瞬間もバレンシアCFと共に過した主人公であった。

スペイン人とフランス人の両方の血を持つマルセル・ドミンゴがエリベルト・エレラ監督の後任となり、バレンシアをヨーロッパへ再び送り込む責任者となった。彼はブルゴスでコーチを務めていたことからブルゴスから3人の選手を連れて来たが、その中でもゴールキーパーのマンサネードが目立っていた。

その後もバレンシアには優秀な選手が揃っていた。その当時新しく入団した選手の中にはカタルーニャ出身のダニエル・ソルソナや、ワールドカップで1974年ドイツが優勝した時の国際的選手のライナー・ボンホフがいた。ソルソナはバレンシアがこれまでにラインアップした中で最もテクニックに優れた選手であった。

78-79年のシーズンは国王杯で主役の座に着いた。試合の運びはすんなりと行ったわけではなかった。ドミンゴに代ったパシエギート率いるチームはバルサと対戦することとなった。第1戦は4-1でバルセロナに敗北。結果は見えたものと思われ、バレンシアが挽回すると思っている人などはほとんどなかった。ところが、メスタージャスタジアムで行われた試合で、ブルー&緋色のチームに4-0の勝利を上げ、バレンシアは国王杯への出場を決め…そして決勝戦へと駒を進めた。

バルサとの試合の後は2部チームとの戦いで、アラベースとバジャドリッドに楽勝。レアル・マドリッドとの決勝戦となった。舞台はビセンテ・カルデロンサッカー場。スペインの首都のサッカー場には2万5千人のバレンシアのサポーターたちが歴史的勝利を記念するかのように、バレンシアC.F.のチームフラッグをはためかせていた。チームフラッグと同じユニフォームを着たバレンシア選手のフォーメションは、マンサネード、カレッテ、アリアス、ボトゥボト、セルベロー、ボンホフ、カステジャーノス、ソルソナ、サウラ、ケンペス、ダリオ・フェルマンで、テンディージョも出場した。そして、バレンシアCFが2-0で勝利。2点のゴールはチームのスター、アルゼンチンのケンペス、そしてその決勝戦ではケンペスと共にアリアスの活躍も際立っていた。

トゥリア川の都は祭り一色に包まれた。翌シーズンはさらに好調で、再びヨーロッパでの試合に出場。国王杯のタイトルを得たバレンシアCFはヨーロッパ・リカップで戦うことになった。パシエギートがテクニックコーチに戻り、ヨーロッパでの試合は、再びアルフレッド・ディ・ステファノにゆだねられた。ヨーロッパタイトルを獲得できたことで、スペインリーグと国王杯の陰が薄くなってしまった。79-80年のシーズンは、1999-2000年チャンピオンズリーグでの準優勝を除けば、バレンシアCFにとって国際試合で成功を勝ち取った最高のシーズンとなった。メスタージャのチームはBKコペンハーゲン、グラスゴー・レンジャース、バルセロナ、フランスのナントなどに勝ち抜いて最後の決勝はロンドンのアーセナルが対戦相手となった。

約7千人のバレンシアファンが手ごわいアーセナルとの決戦を見ようとブリュッセルのヘイゼルスタジアムに集まり、それ以上のイギリス人ファンも集結していた。バレンシアCFのスターティングメンバーは、ペレイラ、カレッテ、アリアス、テンディージョ、ボトゥボト、ソルソナ、ボンホフ、スビラッツ、サウラ、ケンペス、そしてパブロ。延長戦に入ってからカステジャーノスがスビラッツに代った。慎重な試合運びで、緊張の連続であった。スコアボードは0-0のまま120分が終り、ペナルティーキックとなった。バレンシアCFが先行で、ケンペスがはずしてしまった。始まりは最悪。しかし、アーセナルの中枢、イアン・ブラディも失敗してしまったのである。その後連続8点が入り(バレンシアCFはソルソナ、パブロ、カステジャーノス、ボンホフ)2回目のPKに入る。リカルド・アリアスがパット・ジェニングスに蹴り勝ち、そしてペレイラがリックスの蹴ったボールを見事に受け止めた瞬間、ヒーローと化した。歓喜爆発。サウラがバレンシアCFの選手にとってそれまでに一番価値のある優勝杯を受け取った。

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バレンシアCF2部に降格

バレンシアCFの80-81年のシーズンはスーパーカップの年であった。ヨーロッパカップとリカップの優勝チームとが戦う試合で、それまでスペインのチームは一度も勝った事が無かった。バレンシアCFがこのタイトルを奪った後10年後の1992年にバルセロナが勝つまで、このタイトルがスペインで重要視されていないことを不満とするバレンシアCF選手たちの意見が度々聞かれた。

スーパーカップの対戦相手は、以前戦った事もあり、当時ヨーロッパカップとスーパーカップのチャンピオンタイトルを保持していた強力チーム、ノッティングハム・フォレスト。試合は2回。伝説的シティ・グラウンドでの1戦目は2-1、アルゼンチン人選手フェルマンが入れた1点に終わり敗北。全てはルイス・カサノバサッカー場での結果を待つことに。スターティングメンバーは、センペーレ、セルベロー、ボトゥボト、アリアス、テンディージョ、カステジャーノス、サウラ、ソルソナ、モレナ、ケンペス、フェルマン。この試合で唯一ゴールを決めたのはウルグアイ人選手フェルナンド・モレナであった。敵地での得点はダブルカウントされるルールによってバレンシアが優勝した。この快挙は未だに塗り替えられていない。

一方、バレンシアCFはスペインリーグでの優勝のチャンスを逃してしまった。首位のレアル・ソシエダ-に3点差をつけられ、4位となった。スペインリーグで成績が振るわなかった原因は、チームのスターであったマリオ・アルベルト・ケンペスがリヴァ-・プレートへ、そしてフェルナンド・モレナがペニャロルへ移籍して祖国へ帰った事である。

その頃からバレンシアCFは社会的にもスポーツ界的にも悪化の道を歩み始めた。スペインでのワールドカップ開催の為スタジアムの改修工事を余儀なくされたが、その費用は全額クラブで賄わなければならなかったので、クラブの借金もふくれ上っていた。81-82年のシーズンでは主役の座から降板し、5位に止まった。ケンペスとモレナが去った後、デンマークの名選手フランク・アーネッセンが加入したが、負傷により長い間スタジアムから遠ざかり、活躍したのは1年間のみであった。同年、べチー出身のロベルト・フェルナンデスがデビューして一時代にその名を刻んだ。

82-83年のシーズンでは、惨敗の影がおぼろげに見え始めた。経済状態は虫の息。ミルヤン・ミルヤニック監督の下で数少ない明るいニュースは、ディエゴ・マラドナを擁するバルサにメスタージャで勝利したこと、リヴァ-で暫くプレーしていたケンペスが戻って来たこと、UEFAカップでマンチェスター・ユナイテッドを始めとしてバニック・オストゥラヴァ、モスクワ・スパータークなどに勝ち抜いたことである。その他はおしなべて問題と苦悩の連続であった。最終戦まで7日を残したところで、降格を目の前にして苦悩に満ちていたバレンシアは、サリアーサッカー場でバレンシアCFを5-2の惨敗に終らせたミルヤニックに代り、コルド・アギ-レを監督に任命した。

2部への降格を避けるためには、スペインリーグの最終試合に勝つことが要求され、また、ライバルチームの成績を待たねばならなかった。メスタージャでの試合はスペインリーグのタイトルを狙うレアル・マドリッドが対戦相手であった。テンディージョのゴールによって1-0でバレンシアが勝利した上、その日の他試合の結果はバレンシアに味方した。マドリッドではラシング・デ・サンタンデ-ルがアトレティコに3-1で敗れ、バリャドリッドではセルタ・デ・ビゴも3-1で敗れ、カナリア半島での試合でラス・パルマスがアスレティックに1-5で敗退した結果、バレンシアCFがチャンピオン宣言する結果となり、奇跡的に降格を免れたのである。

続く2シーズン(83-84年と84-85年)、事はさらに悪化した。ラモス・コスタは会長職を降り、心臓科医のビセンテ・トルモ会長の職に就いていた。クラブが抱えていた負債は20億ペセタ以上に達し、会員数は激減していった。悪化するクラブに対して、系列クラブから多数の選手がバレンシアCFに上がって来た。その中にはバレンシアCFに全てを捧げたフェルナンド・ゴーメス・コロメールがいた。
 
クラブは維持しがたい状態にまで行き詰まっていた。多数の選手は契約金さえも受け取れず、クラブの借金も大きく膨れ上がり限界まで来ていた。オスカル・ルベーン・バルデスの肩に選手たちを監督する責任が負わされた。ムニョス・ペレスやサンチェス・トーレスと契約したが、栄光どころか困難が目立った。カテゴリーの降格はこの不運な85-86年のシーズンに起こった。シーズン初期は悪くなかったのだが、僅かずつ悪化して行った。22日目にアトーチャで6-0の惨敗が、バルデスを解任して、ディ・ステファノをベンチに呼び戻すことにつながった。最終戦の4日前、降格まで首の皮1枚でつながっていたところで、サンチェス・ピフアンスタジアムでセビリアに0-2で勝利を上げ、ホームグラウンドではエルクレスに3-1で勝った時には1部に残留という希望の一筋の光が見えた。しかし、ノウ・カンプでは3-0で負け、カディスやベティスと引分けに終った時、ついに降格が決定した。その引分けによって、国際的にも優秀な選手を擁し、スペインリーグ4回、国王杯5回、フェリアスカップ2回、リカップ1回、スーパーカップ1回優勝カップを獲得したスペインサッカー界のエリートが、連続55シーズンで終焉を迎えた。降格はメスタージャのクラブ史上最も辛い瞬間であった。

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復活するバレンシアCF

2部への降格は選手、理事、ファンたちが揃ってバレンシアCFを不運から立ち直らせ、力を取り戻させるために役立つのだ、という意見で一致した。それから15年経ち、その時の降格はすでに過去のものとなり、バレンシアCFはスペインやヨーロッパの優秀なチームと肩を並べている。チャンピオンリーグや旧ヨーロッパカップや2000年5月のパリでレアル・マドリッドに負けた試合など栄光に輝く一歩手前まで行ったことがある。

降格したあと、アルトゥロ・トゥソンがバレンシアCFの会長に就任する。サポーターたちは、2部でのプレーに対して傷ついてはいたが、メスタージャのクラブに対する愛情は変らず見放すことなく応援を続け、会員数も増加した。2部での優勝を果たしたあと1部へ戻ったのはそれから1年後のことである。

 バレンシアCFが次の時代の基盤を築くのは2部リーグに居た時である。フェルナンド、キケ、ヒネール、ボロ、レベール、アロージョ、フェノル、ボッシオ、他にもセンぺーレ、スビラッツ、アリアスなど殆どがバレンシア出身か、バレンシアで育った選手たちで固められた。

昇格したあと、次のシーズンに向けて強化が計られた。87-88年は、オポルトから6ヶ月間譲ってもらったアルジェリア人選手のラバ・マッジェールがプレーし、14位に終ったシーズンである。コーチとして3回目を過していたアルフレッド・ディ・ステファノにとって最後のシーズンとなった。

次のシーズンへ立ち向かうためにトゥソン会長たちはカディスでコーチをしていたビクトル・エスパラゴを考えた。この真面目なウルグアイ人コーチはチームに彼のパーソナリティを与えることを知っていた。88-89年シーズンにバレンシアを3位まで上昇させ、また89-90年には準優勝までもって行くことになった。

89-90年はバレンシアにとって輝かしいシーズンになる。スペインリーグの成績は素晴らしく、国王杯(Copa delRey)もまずまずであった。UEFAカップ予選ではブカレストのヴィクトリアとラバ・マジェールが所属するオポルトとの対戦で不当にも負けてしまう。スペインリーグの最初は落胆的であったがエスパラゴが指揮するチームはじょじょに活発になり始め、元気になった。スペインリーグが始まってからCSKAソフィアから高得点を保証されたブルガリア人のフォワード、ルボスラヴ・ミヤデノヴ・ぺネヴが入団した。このシーズン、バレンシアCFに12年在籍したハビエル・スビラッツが退団させられた。

次のシーズン、アルトゥロ・トゥソン会長以下の幹部は準優勝した時の選手軍に加えてバルセロナから戻ったロベルトたちに賭けることにした。しかし7位に終ってしまう。UEFAカップの準々決勝では最終結果にまで影響するほど物議をかもした出した審判によってバレンシアは敗れてしまう。マジョルカにも準々決勝で敗れたバレンシアCFにサポーターたちはがっかりしてしまった。

91-92年のシーズンに白いユニフォームのチームは選手を強化するために経済的な努力をつぎ込んだ。ビクトル・エスパラゴに別れを告げてから、PSVエインドーヴェンにヨーロッパカップのチャンピオンを宣言させたオランダのグース・ヒディンクをコーチに迎える。契約選手には途中で挫折したパナマ人フォワード、ロンメル・フェルナンデスや右ウイングのブラジル人レオナルドがいた。ヒディンクが率いるチームはスペインリーグで4位に終ったけれども、国王杯では準々決勝でレアル・マドリッドがバレンシアCFを振るい落としてしまった。このシーズンもトゥソン会長のクラブ経済は赤字で終る。

新しいバレンシアCFに対する希望や可能性を含んだそのシーズンは、パテルナ・スポーツ・シティのオープン、クラブが株式会社(Sociedad Anonima Deportiva)に形を変えたこと、バルセロナオリンピック大会に参加するためのスペイン代表選手がメスタージャサッカー場で強化訓練を行ったことなど試合以外の大きな出来事があった年である。

バレンシアCF史上公式戦に最多出場したリカルド・アリアスはそのシーズンに引退する。クラブにとって最も秩序正しく品位があった選手の内の一人が抜けてしまったが、そのポストはバレンシア出身のディフェンス、パコ・カマラサが上手にカバーした。

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1990年代

波乱の時代からタイトル奪回の時代へ

国王杯、スペイン・スーパーカップ、チャンピオンリーグ決勝

1992年、メスタージャのクラブは株式会社の形体となり、新しい時代を迎えることになる。それまでの5年間は波乱の時代であった。アルトゥロ・トゥソンが行ったマネージメントで経済的には成功したもののカールスルーエの敗北から彼はバレンシアCF会長職を退くきざしが見え始めていた。

93-94年のシーズンはスペインリーグで1位になり、ロコ、マケレレ、カレンボー、ぺドロースなど若手プレーヤーが出場したUEFAカップではフランスのナントに勝つなど調子良く始まった。その夏、1990年代にバレンシアで活躍した選手の一人、モンテネグロから来たプレドゥラグ・ミヤトヴィッチが契約される。しかし彼はクラブを追い出されるスキャンダルに巻き込まれまることになる。1993年11月2日、スペインリーグのリーダーであったバレンシアCFはUEFAの2試合目のリターンマッチをドイツで戦った。第1試合を3-1で勝ち抜いたヒディンクの選手たちは続く試合も楽戦するはずであった。しかし7-0で敗北してしまいバレンシアCFがこれまでのヨーロッパ戦で最大の屈辱を味わった試合となった。ヒディンクは打ち負かされて次の週にヒホンでも負けた後に解任される。

クラブのテクニカル・コーチであったフランシスコ・レアルがヒディンクの後任コーチとなるが、チームの成績もモラルも上げられずわずか5試合後にはウルグアイ人フォワード選手で1960年代にバレンシアで活躍した事があるエクトル・ヌニェスに引き継がれた。その頃アルトゥロ・トゥソンの経営陣が崩壊した。辞任する人が増え、内部スキャンダルが火を噴いてトゥソンを辞職に追い込み、メルチョル・オヨスが臨時の会長を務めることになる。ラモン・ロメロ候補とフランシスコ・ロイグ候補の間で選挙が行われ、ロイグが選任された。その間にチームのスター、ルボ・ぺネヴに睾丸ガンが検出されて1年間休みを取るが幸い全快する。カステジョンから引き抜かれた若々しいガイスカ・メンディエタが選手として登場し始めた時代である。彼はのちにバレンシアの大スターになった。1993年9月、パナマ人フォワードのロンメル・フェルナンデスが交通事故で命を失う悲しい出来事があった。

1994年3月6日、ロイグが会長に選ばれる。選挙に勝った数時間後、彼はコーチのエクトル・ヌニェスを解雇しテクニカル・コーチであったへスス・マルティネスを後任者にする。そしてホセ・マヌエル・リエロをセカンドコーチからメインテクニカルコーチにした。ロイグが決めた事は驚きの連続で、5ヶ月前に解任されたグウス・ヒディンクを監督にしたのである。バレンシアは方向修正されて質の良いゲームと好成績によってリーガを制覇した。

フランシスコ・ロイグは1994年米国で開催されたワールドカップを利用して、そのチャンピオンに輝いたチームのコーチ、ブラジル人カルロス・アルベルト・パッレイラの契約にこぎつけた。他にもロイグが成功した入団契約の中ではスペイン代表チームのレギュラーGK、アンドニ・スビサレッタや米国のワールドカップで得点王となったロシア人フォワードのオレグ・サレンコなどがある。サレンコはバレンシアCFに来てから米国での輝きは持てなかった。94-95年のシーズンにバレンシアCFはパッレイラを解任させた後、国王杯の決勝戦に出場することになった。パッレイラは国王杯の準決勝戦、対アルバセテ戦の時に解任されてリエロがテクニカルコーチになっていた。国王杯の決勝戦は1995年6月24日、デポルティボ・デ・コルーニャを相手に戦われが、サンティアゴ・ベルナベウサッカー場に降った大雨のために1対1で試合中止となる。3日後に残りの試合時間の再開となった。マドリッドへ2度足を運んだバレンシアCFのサポーターたちにとってこれほどのいらだちはなかった。試合開始直後にバレンシアはタイトルを奪われてしまったのである。失望にもかかわらずメスタージャにはサポーターが詰め掛けて国王杯の準決勝杯を手にしてうなだれた選手たちを出迎えた。

95-96年のシーズンに新しいコーチを迎える。ベテランのルイス・アラゴネ-スが選ばれ、バレンシアをスペインリーグの準決勝へと進出させた。スビサレッタ、カマラサ、フェルナンド、ミヤトヴィッチが代表選手。対戦相手はルボ・ペネヴをコーチとするスペインリーグチャンピオンと国王杯を制覇していたアトレティコ・デ・マドリッド。当時のアイドル、ぺジャ・ミヤトヴィッチは契約破棄金を支払うことなくレアル・マドリッドに移籍し、バレンシアファンを侮辱したとみなされていた。

96年の夏、フランシスコ・ロイグはロマリオを契約する望みを果たした。しかし、天才的で反抗的なブラジル人フォワードはアラゴネースの性格と合わず衝突し、フラメンゴに移譲される。同時にバレンシアファンのアイドルとなるアルゼンチンのセンターフォワード、「ピオッホ(のみ)」クラウディオ・ローペスとの選手契約が結ばれた。スペインリーグの成績は悪く、マドリッド出身のコーチが解任され、代りにホルへ・バルダーノと契約する。このアルゼンチン人コーチは1996年11月にデビューしたが、そのシーズンのタイトルは皆無で、その頃2部チームであったUDラス・パルマスに予選負け、そしてUEFAカップでもタイトルを取ったドイツのシャルケ・04にもKO敗けに終る。その年の12月、バレンシアは南米のスター選手、アルゼンチン人のアリエル「ブリート(ロバの子)」オルテガと契約した。

バルダーノは97-98年のシーズンも始めたがマジョルカ、バルセロナ、ラシング・デ・サンタンデ-ルに連敗したあと解任される。他にもへスス・マルティネスが辞めたあとバレンシア出身のハビエル・スビラッツがテクニカルコーチに就任していた。ホルへ・バルダーノの後任者はイタリア人のクラウディオ・ラニエリだったが、クラブに戻って来ていたロマリオやオルテガともすぐに衝突してしまい、最初のころはうまく行ったとは言えない。これらの不秩序にともないフランシスコ・ロイグが会長職を辞任しまい、1997年12月2日副会長のペドロ・コルテスが後を継いだ。スペインリーグで最下位から2番目、国王杯では弱小チームのフィゲレスをやっと破った状況であった。ラニエリの地位も揺らいではいたが、維持する事が出来た。スペインリーグで9位になり、UEFAカップへの出場権を得るための新しく成立したインテルトットカップへの出場権を得た。このシーズン中、契約した唯一の選手はルーマニア人のアドリアン・イリエだけで、彼は初めの数ヶ月間すばらしい活躍振りであった。

98-99年のシーズンが始まり、クラウディオ・ラニエリはインテルトットカップでバレンシアCFにUEFAカップへの出場資格を与えさせたが、予選でリヴァプールに敗退してしまう。スペインリーグでは4位になりヨーロッパカップに取って代ったチャンピオンリーグへの出場権を獲得した。しかしそのシーズンでの大勝利は国王杯の試合であった。トーナメントに勝ち進んだバレンシアはセビリアのオリンピックスタジアムで1999年6月26日、アトレティコ・デ・マドリッドと対戦してメンディエタの大ゴールと「ピオッホ」ローペスの2点のゴールによって3対0で勝った。書き尽くせないほどの幸福感に包まれたバレンシアファンが大騒ぎをしたことがいまだに思い出される。20年後、又もやクラブのショーケースに同じ優勝杯が並ぶことになった。決勝戦のチームメンバーは、カニサーレス、アングロマ、ジュキッチ、ロチェ、カルボーニ、メンディエタ、ミージャ、ファリノース、ヴラオヴィック、イリィ、クラウディオ・ローペスであった。フアンフラン、アングロ、ビヨクルンドもプレーした。

1999年春、ラニエリ自身が国王杯を奪ったアトレティコ・デ・マドリッドと契約したにもかかわらずラニエリはバレンシアCFで監督を続ける。後任者に選ばれたのは2シーズン前にスペイン・スーパーカップ、国王杯での決勝、リカップの決勝などマジョルカに驚くべき成績を上げさせていたアルゼンチン人のエクトル・クーペルであった。その夏の契約では、アルゼンチン人のセンターライト、「キリー」ゴンサレスが際立っていた。バレンシアCFの勝利は止むことなく、1999-2000年のシーズンでも新たにタイトルを獲得する。FCバルセロナと対戦したスペインスーパーカップであった。スペインリーグでは1位のデポルティボ・デ・ラ・コルニャと2位のFCバルセロナに続く3位で終った。しかしヨーロッパの「チャンピオンズ・リーグ」という大舞台での初出場で勝利が訪れる。バレンシアCFのサッカーの質とその野望に対して世界が驚きの目で見つめる内に決勝戦の日を迎える。そして2000年5月24日、パリでの試合は無念にもレアル・マドリッドに3-0で敗れた。最高の栄光に近づいたバレンシアCFはヨーロッパの人気チームとなった。

クラウディオ・ローペスがイタリアのラッツイオへ、ファリノースがインターへ、へラルドがバルセロナへそれぞれ別れを告げたあと2000-2001年のシーズンが始まった。クーペルが監督を続けたその夏のシーズンにウルグアイ人ディエゴ・アロンソ、ノルウエイ人ジョン・カレゥ、元アトレティコ選手のルベン・バラッハ、アルゼンチン人アヤラ、ブラジル人サイドフォワードのファビオ・アウレリオが新規契約選手として入団した。

2000-2001年のシーズン前半、スペインリーグで調子良く駆け出したチームは、10試合以上の間リーダーを維持していて結構好い線を行っていた。しかし、人々をあれだけ夢中にさせるチャンピオンリーグという競技が最高に厳しいものだということにバレンシアCFが気付いたのは、クリスマス休暇が終ってからであった。楽々と2試合に勝ったあと準々決勝戦ではアーセナルを負かして準決勝ではリーズ・ユナイッテドにも勝ち、いよいよミュンヘンのバイエルンとの決勝戦に備えていた。我らのチームは再び天にも昇る気持ちを抱いていた。前回はパリで、今回はミラノで栄光を勝ち取る試合に期待がかけられていた。5月23日のUEFAチャンピオンリーグ極めの試合会場は、サン・シーロスタジアム。試合開始後、メンディエタがペナルティーキックで得点を入れる。カニサーレスがメムット・スコルとエッフェンバーグのゴールをストップした。そしてハーフタイムが終り後半戦に入ってから、審判のディック・ジョルが示したペナルティーのサインによって引分けとなる。延長戦に入り、ぺナルティーによる得点でバレンシアCFは再びヨーロッパの準優勝チームとして涙を飲むことになった。ヨーロッパ制覇はクラブ史上最大の目的ではあったけれど。ミラノでの衝撃を克服するのは難しく、スペインリーグの成績は5位に終り2001-2002年のチャンピオンリーグへの参加は不可能になってしまう。

7月に入り、ドン・ペドロ・コルテース会長が個人的理由から辞任状を提出する。国王杯とスーパーカップでの優勝杯やチャンピオンリーグの準優勝杯を2個獲得し、満足感に満ちた上で辞任した。次の会長職にドン・ハイメ・オルティーが就任した。そしてヨーロッパ諸国でも賞賛されるほどの優秀なクラブへと進ませた前会長のラインを継続する意向を発表する。コーチや選手の交代もあり、エクトル・クーペルの代りとしてテネリフェを昇格させたラファ・ベニテスが新監督になった。メンディエタ、デシャンプ、ミージャ、ザホヴィック、ヘラルドが去り、マルチェナ、ミスタ、ク-ロ・トーレス、ルフェッテ、デ・

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リーガ2001/02シーズンから2003/04シーズンの歴史的ダブルタイトル獲得へ

2001/02および2003/04シーズンは、バレンシアCFの歴史の中で最も栄光に輝いた時期のひとつといえる。2004年はクラブ創設85周年を迎える記念の年だった。2度のリーグ制覇、UEFAカップとヨーロッパ・スーパーカップをそれぞれ一度、これらを含め、この6年間で5度のトップ・タイトル奪取と2度のUEFA チャンピョンズリーグへの決勝進出を果たした。

昨今、巨額の予算と数百万ユーロの移籍金が常識化している中、バレンシアCFは、この21世紀初頭、スペイン最高のチームであり、世界でも最高のチームのひとつとなった。その時々に合った、スポーツ面の優れた計画立案能力、磐石の組織そしてチームにおける安心と忍耐。これらがハイメ・オルティ会長率いるクラブを現在のサッカー界における中心的存在のひとつにならしめた。

31年ぶりのリーグ制覇。すべては2001/02シーズンに始まった。テネリーフェから来たラファ・ベニテス監督をはじめ、マルチェナ、ミスタ、クーロ・トーレス、ルフェテ、デ・ロス・サントス、シルバらがチームに新たに加入した。わくわくするようなプレシーズンの後、リーグ戦開幕時、バレンシアは優勝候補のひとつに挙げられていた。第一節、チームの真の実力が試されることになる。

リーグ第一節、重要かつ意義深い勝利を得た。相手はレアル・マドリー。明らかに優位を見せつけた勝利。ここから11試合連続無敗を続け、最後にリーグ優勝した1970/71シーズンに作った記録を塗り替えた。

しかし、リーグ制覇は決して生やさしい道のりではなかった。2003年12月9日、コルーニャでデポルティーボに敗れたことにより、このあとのレースから脱落しないためにはモンジュィックでのエスパニョール戦に勝つことを義務付けられていた。前半、2-0でリードされて折り返した後半、劇的な展開でスコアを逆転し2-3での勝利。この結果は、後のチームの士気を大いに高めることになる。

リーグの後半戦は真に歴史的なものとなった。ベニテス監督率いるチームは、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで1-0のスコアで敗れ、小さな危機を迎えるが、逆境に打ち勝ち、その後の6試合を4勝2引き分けで乗り切った。ラス・パルマス、アスレティック・デ・ビルバオ、アラベス、レアル・サラゴーサ相手のゲーム、そしてFCバルセロナ相手の堂々たる勝利は、この種の厳しい競争において鍵となる最後の10試合を確実に戦うための充分な自信をチームに与えた。

最も重要なゲームのひとつがエスパニョール相手の対戦だった。0-1でリードされ、さらにハーフタイムの前にカルボーニが退場処分を受けた。しかしチームは逆境に対し成長していた。バラハが決めた2発のゴールによって、バレンシアCFは栄光につながる夢の細道を進むことになった。これに加えアノエタでのレアル・マドリーの敗戦でリーグタイトルまで、あと勝ち点3に迫った。

ロサレダが終着駅となった。2002年5月5日。バレンシアの歴史に刻まれた一日。チームを包んでいた極度の幸福感を遠ざけるため、選手たちは試合会場のそばのベナルマデナに隔離された。それでも、歴史にその名を刻む運命にあったチームの信頼と安心は察することが出来た。さほど苦しいゲームではなかった。アヤラの早い時間帯のゴール、そしてハーフタイム前のファビオ・アウレリオの駄目押しの一点で5度目のリーグ制覇が確実となった。バレンシアが31年ぶりのリーグチャンピョンだ!マラガのスタジアムでは喜びが爆発していた。ファンたちは選手たちとともに抱き合い、歓喜に酔い、爆竹の音が全アンダルシア地方に鳴り響き、白黒の旗とバレンシアの旗がアンダルシアの空に舞っていた。バレンシアではこの甘美な喜びが何倍にも増幅されていた。数十万人のバレンシアファンがかつてないほどの幸福感を味わっていた。何代にも渡るバレンシアファンは夜明けまで喜びを堪能し、さらにアンダルシアから帰還するチームの乗った飛行機を出迎えるためマニセス空港へ直接出向いた。飛行機は午後1時に到着した。

リーグチャンピョンを迎えるため、雨の中、全市が狂喜し町に出た。悪天候にもかかわらず、市庁舎、大聖堂、自治政府庁舎が白黒ユニフォームをまとった。クライマックスはメスターリャ・スタジアムで迎えることになる。卓越したファンたちのおかげでチームは忘れられないシーズンを締めくくることになる。が、幸いにも、これは近い将来繰り返されることになる。

リーグ制覇の翌年、2002/03年シーズンはほろ苦い味のシーズンになった。バレンシアCFは前年と同じチーム構成で臨んだ。さらに重要な意味を持つチャンピョンズリーグへの復帰。リーグ戦の始まりは悪くなかった。第八節、ファビオ・アウレリオのゴールで得た勝利で、ここまで5勝し無敗を続けていた。前シーズン、リーグを制覇したチームは栄光の2002年をトップの位置で終えることになる。しかし、結局このシーズン、満足できる結果で終えることはかなわなかった。ただし、このことは将来への教訓にもなった。

そして迎えた2003/04シーズン、挑戦という位置付けで臨むことになった。バレンシアCFはUEFAチャンピョンズリーグから外れ、UEFA カップに回ることになっていた。チャンピョンになりかけたチームにとって、これは決して満足できるカテゴリーではなかった。プライドと優勝への強い意欲によって、歴史的シーズンがスタートした。レアル・バリャドリーと引き分けた後、レアル・マドリー、アトレティコ・デ・マドリー、マラガ、アサスナ、FCバルセロナそしてエスパニョールという強敵を相手に6連勝を飾り、歴史上最高の開幕ダッシュに成功した。

こうして、2003/04シーズンは次々と新しい記録が塗り替えられていった。勝ち点77、23勝、リーグでの最高勝数、71点、最高得点数(チームにとっても過去、最も高い得点のひとつ)、失点27点、最少失点は連続。一年の間をおいただけのリーグ制覇を彩る数多くの肩書きに加え、4月には世界最高のクラブと評価された。

歴史的優勝を祝うため何十万の人々が町に飛び出した。マニセス空港でのチームの出迎え、市内のパレード、地元の守護神、デサンパラードス聖母マリアに捧げた優勝、自治政府、市庁舎のバルコニーからの挨拶、バレンシアファンにとって終生忘れられない全員共通の思い出。

リーグ制覇に向けて少しずつ進んでいる頃、一方ではUEFAカップも進行していた。10月、まずスウェーデンのAIKソルナ相手の予選で戦いの火蓋は切って落とされた。シーズン開幕直後のこの時期、フィジカル面で優れたスウェーデンチーム相手に、予想以上の苦戦を強いられた。2試合とも1-0で勝ち、次のラウンドに進みイスラエルのマッカービ・ハイファと対戦することになる。

メスターリャでの試合はスコアレス・ドローに終わり懸念を残した。またイスラエル国内の治安状況が次のゲームをさらに不安にさせていた。しかし、UEFA の公正な裁定により、次の試合を中立地、具体的にはロッテルダムで開催することが決まった。試合の結果は4-0。ヨーロッパのタイトル奪取に向け、とどまることの出来ない道をさらに一歩進むことになった。

サード・ラウンドの相手はベジクタス。この大会でバレンシアが対戦した最初のトルコチーム。ファースト・レグ、地元でのゲームを3-2の辛勝で、恐るべきトルコでのセカンド・レグに不安を残した。ここでもバレンシアはチャンピョンとしての意思を見せ、0-2という結果で勝利を得た。

ベスト16戦、またもトルコチーム。今度の相手はほとんど発音することが出来ない名前だが、本大会の話題になっているチームだ。ゲンチレルビルリは、ここまでのステージで、パルマ、スポルティング・デ・リスボン、ブラックバーン・ローバースを破っていた。このことからも5月19日のスタジアムに立つことの難しさが分かる。3月11日、試合当日、この日は、スポーツイベントの日としてではなく、マドリーで約200人の命が奪われた事件の日として記憶される。この大惨事の規模の大きさから、UEFA は一時、ゲームの中止を検討したが、結局、試合開催が決まり、結果は1-0で敗れた。

またもセカンド・レグに勝負を掛ける。そしてまたもチームは不利な状況を跳ね返すことになる。前半5分、ビセンテのゴールが決まり、彼のUEFA での最初の得点になる。試合は2-0の勝利。このラウンドも苦しみ、額に汗して得たクォーターファイナルだ。残り5試合。ボルドーが最初の相手だ。バレンシアCFには楽観的雰囲気があった。この4月の時点では、もう破るのが難しい強豪チームに変貌していたからだ。実際、ボルドーでこれを示し、1-2でフランスチームに勝ち、セミファイナルの切符に手を掛けた。メスターリャでのセカンド・レグは2-1で勝ち、数日後のセミファイナルに進むことになった。相手は誰あろうビリャレアル、「ユーロダービー」と呼ばれた。

すべての対戦の中で最も興奮するラウンドとなったのは間違いない。ファースト・レグは引き分けに終わり興奮を残した。0-0のスコアレス・ドローだが、両チームのプレー振りを見ると必ずしも正当な結果とはいえない。バレンシアは優勢だったが、引き分けをよしとした。さらに、両チーム間にある兄弟的な雰囲気も手伝い、最終決着をメスターリャでつけることが公平とも思われた。

予想通り、感動的な対戦になった。力と力がぶつかり合い、ゲームの展開は各自の責任感の強さで左右された。結果はミスタへのペナルティーを本人が決め、これにより次のステージへの進出が決まった。ビリャレアルの執拗な攻撃にさらされたが、バレンシアCFの堅いディフェンスが失点を0に抑え、結果は1-0。メスターリャ・スタジアムは歓喜にわきかえり、町はお祭り騒ぎになった。この5月7日木曜日は、この月全体を通してチームを包んだ幸福感の延長線上にあった。決勝の舞台、ヨーテボリで何が起ころうと、チームは最も輝かしいシーズンを戦っていた。UEFA カップの制覇は、したがって、それまでの完璧な道のりに添えられる金の飾りつけとして見られていた。

しかし、チームは勝つため、そしてパリとミラノで負った借りを返すために試合会場に向かった。5月20日を生きた者たちは歴史の証言者となった。チームが一丸となった猛烈なゲーム、特にミスタとビセンテは2得点の主人公になった。バレンシアCFはオリンピック・ドゥ・マルセーユを容赦なく破り、80年に獲得した伝説のヨーロッパのスーパーカップ以来、ヨーロッパの勝者に返り咲いた。クラブ創設以来最初のダブルタイトル奪取を実現した瞬間だった。

2004年8月27日、モナコで行われたヨーロッパスーパーカップ決勝戦を制し、国内リーグ、UEFAカップ共に優勝し、3冠を成し遂げたバレンシアCF。昨年は、バレンシアCF史上、最も多くのタイトルを手にした一年となった。そして、本年1月11日UEFAが発表した、年間最優秀チームにバレンシアが選ばれた。

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